あるべき天皇像と譲位

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今朝の産經新聞に新元号に関する記事が掲載されてました。平成31年の元日から新しい元号になるのか。昭和生まれのワタシも平成から新しい元号へと歴史の移り変わりを経験する事になります。保守合同を推進した緒方竹虎氏が朝日新聞・新米記者だった頃に『新元号は大正!』とスクープしたのは戦前の事。
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歴史が好きで〜アレだけ山川出版社の詳説日本史を読んでいたつもりでも、江戸時代後期の光格天皇の事を殆ど知りませんでした。不勉強で恥ずかしい… (>_<)



明治天皇の曾祖父にあたられる方。
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高校時代〜受験生にとって、江戸幕府の改革“享保の改革~田沼意次の重商主義~寛政の改革~天保の改革”にばかり焦点が当たって朝廷に関して授業で触れられる事は殆ど無いです。いや…札幌旭丘高校時代〜石黒先生【現・札幌開成高校の校長】は触れていたかも。(苦笑い)クローズアップされるのは孝明天皇から明治天皇への移行期。石黒先生が孝明天皇の毒殺説も歴史学会ではあることを語っていたのは何となく覚えています。
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この時代にも皇統の危機があったのな。この光格天皇が『天皇』という称号を約900年振りに復活させた事実もこの記事で初めて確認。 じゃあ〜何とお呼びしてたのかな? 『みかど』かな?『天子はん』?   f^_^;

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松平定信の寛政の改革の頃に江戸幕府とやり合う光格天皇の記述があった!




(以下抜粋)1789(寛政元)年、朝廷は光格天皇の実父である閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)に、太上天皇(だいじょうてんのう)の尊号【詰まり略して上皇】を宣下したいと幕府に同意を求めたが、定信はこれを拒否した。武家伝奏(ぶけでんそう)ら公家はふたたび尊号宣下を求めたが、定信は本来武家伝奏は幕府側に立つべきとして、公家を処分した(1793〈寛政5〉年)。この一連の事件を『尊号一件』と呼ぶ。この事件の対処をめぐる将軍・徳川家斉との対立もあって、定信は老中在職6年余りで退陣に追い込まれた。この事件を契機にして、幕府と朝廷の協調関係は崩れ、幕府による統制機構は幕末まで維持されるものの、天皇の権威は幕末に向かって浮上し始めた。

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閑院宮家や有栖川宮家のルーツはこの時代か。矢張り我が国にとって、皇室の存在意義は大きいと実感しました。





また天皇が位を譲る譲位というキーワード。退位というのは日本史の教科書でも使ってません。退位という表現には違和感を覚えます。山川出版社『詳説日本史』でも…





1629(寛永6)年、体調を崩していた後水尾天皇は、紫衣事件をきっかけに、幕府の同意を求めずに突然『譲位』した。幕府はつぎの天皇が、秀忠の孫である明正天皇となることもあり『譲位』を追認したが、その際、幕府は摂家と武家伝奏に厳重な朝廷統制を命じた。こうして家康以来推し進めてきた朝廷統制の基本的な枠組みが確認され、幕末まで維持された。





歴史は奥深い。