2018年 04月 07日 ( 2 )

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緒方竹虎と云う言論人・政治家を初めて知ったのは高校時代だ。




テレビ番組の再放送で映画『小説吉田学校』観ていた時だったと思う。




吉田茂・総理大臣を森繫久彌さん、緒方竹虎・副総理を池部良さんが演じていました。




吉田茂に内閣総辞職を進言するシーンで




池部良さん演じる緒方竹虎が『田舎へ帰って、百姓でもやります!』




保守政治家には稀な誠実な人柄であったことは事実。




一緒に観ていたオヤジが歯がゆそうに




『こいつが生きとったら、今の自民党も~もう少し変わっとったかもなあ…』




丁度あの頃は…竹下登内閣で消費税3パーセント導入、リクルート疑惑で国会が紛糾していた。




今も大して変わらねえか?(爆笑)




その竹下改造内閣で法務大臣として入閣した長谷川峻氏が僅か3日間で!!!!!




リクルートからの献金が発覚し辞任。




任命した『ウィッシュ♬』DAIGOのお爺さんもタマランでしょうに(汗)




戦後政治史で任命から最短退任記録。





就任記者会見で『リクルートから金を貰っていたら此処にはいない!』って大口をたたいた…長谷川さん。





後にリクルート江副さんから政治資金を受けていた事実が発覚。





高校生のワタシも啞然としたのを憶えています。





長谷川氏に政治のイロハを教えた師匠は皮肉にも中野正剛と緒方竹虎。





長谷川峻氏も早稲田大学~新聞記者を経て政界入り。





東久邇宮内閣では緒方の秘書官をしていた。




あの中曾根康弘氏が『緒方先生は政治資金はきれいだった』と仰ってました。




その弟子がこんなことに…非常に残念。





さて、大学生の頃に緒方竹虎氏の関連書物は




中公文庫『人間・中野正剛』緒方竹虎・著や





岩波書店『評伝 緒方竹虎~激動の昭和を生きた保守政治家』三好徹・著を読了。





緒方竹虎の三男・四十郎氏の奥様が国連難民高等弁務官でもお馴染みの緒方貞子さん。





貞子氏が結婚した時は既に義父・竹虎は亡くなっていました。緒方貞子回想緑を!





小泉純一郎氏が初めて組閣した際に田中真紀子後任の外務大臣を





民間からサプライズで緒方貞子氏に入閣要請したが、本人が固辞されたのも記憶に新しい。

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この新書を読み切りましたが、従来のイメージとは違い歴史の裏側も垣間見えて面白かった。





今では安倍政権と完全対決姿勢の朝日新聞ですが…





戦時中の朝日新聞は満州事変以降、軍部と協調して体制派的なポジションになっていきます。





朝日新聞社出身の主な政治家は緒方竹虎・石井光次郎・河野一郎・細川護熙氏など。





緒方竹虎と河野一郎は全くそりが合わないのが何と無く分かる。(笑)





2・26事件で朝日新聞社が襲撃部隊に襲われた際の武勇伝は…




緒方竹虎を神格化したエピソードとして有名。




※【2・26事件は陸軍大尉・野中四郎ら青年将校約20名に引率された1400名の下士官・兵が首相官邸や警視庁など公的機関6ヶ所と東京朝日新聞社を襲撃。内大臣・斎藤実、蔵相・高橋是清、陸軍教育統監・渡辺錠太郎は即死。侍従長・牧野伸顕も辛うじて九死に一生を得る。三宅坂で上官の命令で反乱軍として立っていたのが、後の人間国宝5代目・柳家小さん師匠。】




※ 渡辺錠太郎の娘がベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』の著者・渡辺知子シスター。当時、彼女は9歳で、眼の前で父親が殺害される経験を持つ。ワタシも42歳の時に三途の川を渡りかけた時にこの本に救われました。泣いた。過去ブログを♬




※ 牧野伸顕の娘婿が吉田茂。牧野伸顕の父は大久保利通。





言論人としての緒方氏はリベラルな考え方でしたが…現実との妥協は厭わない動きをします。




育った地である福岡の右翼団体、玄洋社の頭山満や




修猷館中学の先輩である中野正剛などと交流が深いので右翼にも顔が利く。




戦時体制に協力しつつ朝日新聞社の存続と最低限の自主性を確保しようとした。




経営のワカル言論人だった訳だ。(之を良しとしない記者や社員も居たでしょう。)




盟友・中野正剛が東条英機首相と対立し、自刃したことで緒方竹虎は東条と真っ正面からぶつかります。




(因みに岸信介は東条内閣の商工大臣として入閣。満洲国・満蒙開拓団を積極的に推し進めた革新官僚。)





中野正剛の葬儀委員長を務めた緒方は東条の献花を突っ返しているエピソードもこの頃。





東条倒閣運動や終戦工作に関わることに。





1944年7月に小磯国昭内閣で国務大臣兼・情報局総裁として入閣(朝日新聞社を退社)。





終戦に伴って成立した東久邇宮稔彦王内閣で内閣書記官長(今の官房長官)に就任。




東久邇宮首相は国民から直接手紙を!と投書を呼び掛けて国務大臣・緒方竹虎のもとに特別機関を設けた。




緒方も政府が敗戦に至った経緯を国民に周知して戦時の言論統制を解き民意をくみ取ろうとした。




その手紙を皇族の東久邇宮稔彦首相に読んで聴かせていたのが…




戦後リクルート疑惑でスピード辞任した、緒方の秘書官である若き長谷川峻法務大臣だった。




しかし歴史って皮肉。(苦笑い)





この時に朝日新聞社関係者を閣僚や内閣秘書官や内閣参与に多数参加させたので




『朝日新聞内閣』と揶揄された。まあ実質的に『緒方内閣』と言っても過言ではありません。




ご興味ありましたら…佐々克明・著『病める巨象』をお読みください。






この頃の緒方竹虎の遺稿を抜粋します。




【鈴木内閣が辞職した後の局面は到底臣下で収拾できるものでもない。皇族の内閣首班といふことは平時にあっては勿論賛成できないが、いまの眼前の問題は、軍の不満妄動を抑へて無条件降伏の跡始末としての武装解除をし、連合国をして一つの突発問題なく進駐せしむることである。しかも一歩を誤れば、折角陛下が一億蒼生を憐ませ給ふ海岳の御思召から下された終戦の英断が無意義になるのである。此際は宮中も府中もない。臣下で͡此大任に堪える者がなければ、宮殿下を煩はすより外はない。しかも東久邇宮ならば平生承知する御性格からも必ず此大任を完了されるに違ひない、と考へたので、殿下の御決心を感謝し、直ちに犬馬の労をお引き受けした。小磯内閣の時と異り、今度は言下に御引受申し上げた。何となしに最近の健康が気遣はれたが、事態は健康を顧慮してゐる時でもないし、事実また局面の収拾如何によつては生命は幾つあっても足りないと考へたからである。今度は本当に死場所を得たやうな感で、半面身の果報をすら感じた。】

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この東久邇宮内閣総辞職の理由について併せて読んでいる『徳富蘇峰 終戦後日記』に記述がありました。




以下~蘇峰の日記を抜粋します。




東久邇宮内閣総辞職の直接理由として、朝日新聞に掲げたものは、極めてその要領を得ている。朝日新聞は、東久邇宮内閣の国務相にして、同時に書記官長であり、いわば内閣の総支配人緒方竹虎氏の古巣であるから、最もよくこの内閣の真相に通じていることは、当然過ぎる程当然である。



(参考資料)『朝日新聞』昭和20年10月6日 

    治安確保の問題と皇室への自由討議

    内閣総辞職の直接理由

東久邇宮内閣は8月17日終戦の善後処理を最高使命として発足して以来、聯合国軍隊の本土進駐、我が陸海軍の復員等の終戦事務を円滑に遂行、その間よく国内の治安を維持し、かつ民主主義日本の再建に必要な基本的諸施策についても検討、速度不足の憾みはあったが、順次実行に移してきた。終戦事務の一段落により内閣の任務は終了したとの理由で内閣の更迭を要望する声もあったが、適当な後継内閣の出現も期待し得られなかったので、首相宮殿下は次の総選挙の後に最大の政党による内閣の出現を予想され、それまでは内閣の改造を行ってでも国政処理の大任に当る御決意であった。ところが4日聯合国最高司令部より帝国政府に宛た『政治、信教並に民権の自由に対する制限の撤廃』に関する覚書により首相宮の御決意は一変した。辞職の直接の原因としては覚書の要求通り天皇陛下、皇室制度に対する自由な討議に関する制限を撤廃することは、この内閣としては到底実行し得ないこと、および内務大臣以下全国の警察首脳部の罷免および全特高警察機関を廃止しては国内の治安確保に責任が持てないという点にあるとみられる。更に根本的な理由としては組閣以来聯合国軍総司令部との連絡が不十分で司令部の意向と内閣の施政の動向との間に相当の開きが生じた事が挙げられ、之が最近に至って判然として来たことによるものである。ここに東久邇宮内閣は組閣以来50日にして退陣した。



※ 数字に関しては読み易い様に漢数字から数字に直しました♬





この時期の解説をお馴染みの山川出版社『詳説日本史』で読んでみると…


ポツダム宣言受諾と共に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)が組閣して、1945(昭和20)年8月末以降の連合国軍の進駐受け入れ、旧日本軍のすみやかな武装解除、降伏文書への調印を円滑に遂行した。しかし、『一億総懺悔・いちおくそうざんげ』『国体護持』を唱えて占領政策と対立し、同年10月にGHQが治安維持法や特別高等警察(特高)の廃止、共産党員はじめ政治犯の即時釈放を指令し(人権指令)、天皇に関する自由な議論を奨励したのを機に東久邇宮内閣は総辞職した。





東久邇宮が、緒方竹虎に期待していた点は言論人としての文筆能力・世論の動向に対する洞察力。



東久邇宮の演説内容、記者会見、放送原稿は全て緒方の筆によるもの。



こういう事実は学校では全く教わりません。




東久邇宮内閣は総辞職し、幣原喜重郎内閣が組閣します。





この頃に緒方が執ったのが『戦争責任は一部の軍国主義者、特に陸軍にあり』と云う路線。




公私共に米内光政とも近いから。反東条って立場。




この路線の延長線上で、東京裁判で海軍からは死刑判決は出ず、昭和天皇の責任も問われずに済み、朝日新聞なども存続を許された。
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しかしながら、こうした緒方竹虎への反発も強く1945年12月に自身もA級戦犯容疑者の指名を受け、公職追放されました。




※ 公職追放とはGHQにより、戦争犯罪人・陸海軍軍人・超国家主義者・大政翼賛会の有力者、政・財・官界から言論界に至る各界指導者21万人が戦時中の責任を問われて職を追われた事。





大田区山王草堂に残るこのハガキは五反田の自宅で蟄居中の緒方が熱海市の晩晴草堂に同じく公職追放された徳富蘇峰へ宛てたもの。




この頃の緒方竹虎は政界への復帰を想定して過去の自分を見つめ直す作業を始めたのかもしれません。




戦前に岸信介のように満洲進出を積極的に主張したわけでもなく、政治的指導者として深く関与したわけでもない。




但しGHQからの取調べは小磯内閣の閣僚として政権中枢に居た事が戦犯指名の理由だったのか。




緒方の小磯内閣への入閣は蔣介石との間に南京政府のミヨウヒンを介して和平交渉を試みた。




結果的に失敗に終わりましたが。(頭山満にも相談していた。)




恐らく戦犯指名は…近衛文麿の新体制運動に深く関わった点。朝日新聞主筆として軍に協調してきたこと。




大政翼賛会・翼賛壮年団の指導者であったことは紛れもない事実。





東洋経済新報社社長として『小日本主義』を主張して対外膨張を批判していた石橋湛山や





議会において自由主義者として阻害された鳩山一郎らがGHQによる公職追放を不当だとして





周囲の同情を得ていたのとは違い…緒方自身の政治的ポジションを語る必要から





対米戦に消極的だった海軍大将・米内光政の文章を書いたり、『人間・中野正剛』を執筆したのかな。





盟友・中野正剛は政党政治を否定しました。緒方はこの辺りの核心…どうだったんだろう?
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日本版CIA構想も吉田茂が緒方竹虎に任せるカタチで





進行していた事実も興味深いです。





高等学校の授業で戦後史は受験前で駆け足で終わってしまいます。





山川出版社の教科書だけでは内閣の名前を覚えるのが精一杯。





今回のアメリカ公文書から新たに判ったコードネーム『POCAPON』。





改めて公文書の大切さを実感しました。





同じ言論人の石橋湛山とは対極にいたんだ。石橋湛山~池田勇人~田中角栄が一つの流れ。






憲法改正の考え方なども、岸信介と緒方竹虎の進もうとしたベクトルは同じかもしれません。






アメリカ(アレン・ダレス)も極東の対日政策・反共という点で





吉田茂~緒方竹虎~岸信介と目を付けていたんでしょう。





今回のCIAとの繋がりで、緒方竹虎の国家観や別の表情も垣間見えて来た。





鳩山一郎とソビエト社会主義共和国連邦との急接近を緒方が特に警戒しているのがよく判ります。





政治の世界ってキレイごとだけでは無理なんだと。





先日のブログ記事で取り上げた『暮しの手帖』初代編集長・花森安治が




政府高官であった緒方竹虎の自宅を訪問しています。





その感想が『政治の匂いがしない。』





そんなところも言論人・政治家である緒方氏の魅力なのかもしれません。





急逝した緒方竹虎の弔辞を日本社会党の鈴木茂三郎が詠んだ。





『寒に耐ゆる白い梅がまさに開かんとして一夜の風雪に散った…』



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いやしかし…
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どっこいしょは六根清浄が語源だった♫
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どっこいしょ…と言い始めたらもう…





仏様に近づいている証拠?  (笑)


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食べ終えたら『ごちそうさまでした!』




洗い物を…




あーどっこいしょ♫